新潟まつりは昭和30年頃、住吉行列、商工祭、開港記念祭、新潟川開の四つの祭りを一体化させたものです。ここでは、新潟川開の歴史をまとめてみます。

新潟川開は当時の新潟の有志で打ち上げたのが始まりで全国でも名をはせるほどの大会になったそうです。現在は治水が進み川幅が狭くなったのでかつてのような大きな花火は、保安距離等の関係で打ち上げることはできませんが、先人たちが打ち上げた大きな花火を忘れることの無いようにここに過去の歴史をまとめておきます。

(注)「新潟市史」「白山神社史」、過去の新聞等々より情報を集めています。誤りや他の情報、史料等ございましたら情報提供いただけるとありがたいです。

年代

 

明治10年代

神社祭礼の景気づけの昼花火ではなく、観賞用の夜花火が打ち上げられるようになる。

明治11

81日、2日に白山堤外の緑亭が主催して白山浦で花火を挙げる

明治14

7月31日から8月2日 宮島楼が主催して230発の花火を挙げる

8月26日・27日は寄居の諏訪神社の祭礼で大掛かりな花火を挙げる

明治16年

東京両国にならい「新潟川開」として白山公園内にあった料亭偕楽館と延寿亭が催主となって8月11、12日に白山浦の洲で花火を挙げた。小須戸・新潟の花火師と花火好きの者が打ち上げた花火は八寸玉を最大に210発であった。 今後毎年8月1日に開催するとのことであったが、実際にはできなかったらしい。

明治19年

(☆8月万代橋架設を記念しての「橋祭り」に花火を打ち揚げてほしいと八木朋直初代市長に請われ、打ち揚げたことで名声を博した。)

明治21年

8月25日には萬代橋を桟敷にした「川開」花火大会が催された。橋の北側半分を見物席にし、橋の下流に船を数隻つないで花火の打ち上げ場所にした。萬代橋の橋銭を取っていた八木朋直の万代橋事務所と橋の北側に乗り場があった安進社が興行主となって、花火の寄付者を募り、花火の番付を作って寄附した者の名前を掲載した。24年以降は中断された。(花火数百本※新潟市医師会HPより)

(※橋の欄干には灯りを吊るし、今で言うところの“イルミネーションの夜景”を出現させたので大評判となり、大いに賑わいを呈した)

明治39年

新潟県が主催したウラジオストク・樺太への視察に新潟市と同行した、阿部邦太郎◎・小林存(ながろう)☆・風間正太郎△らを中心とした新潟市の有力者や若手実業家が丁未(ていび)会という懇親会を結成   ◎海外貿易株式会社員☆新潟新聞記者 △新潟商業会議所書記長

明治41年

(☆新潟市は明治41年春秋(3月と9月)の二回にわたり大火に見舞われ、市街地の大半が廃虚と化した。初代萬代橋が消失。)丁未会が8月に舟遊びをし、3,4寸の花火を数発打ち上げる。川沿いや萬代橋上の上は見物の人々でにぎやかになり、毎年実施することになる。3.8 古町通八番町より出火、大火となる。焼失戸数1198戸、市の中枢地の過半は烏有に帰し、竹山病院、若杉病院も類焼し、長谷川病院施療部、前田産婦人科医院、木下医院も焼失し、万代橋も焼失する。

9.4 古町通四番町より出火、今年再度の大火となる。延焼2122戸。市内有数の建物類焼する(市役所、警察署、郵便局、電話局、師範学校、神社)新潟市医師会HPより)

明治42年

(二代目萬代橋完成)新潟新聞社(現新潟日報社)も川開きの復興を計画中で、新潟新聞社と丁未会が協議して、「絶えたるを継ぎ、廃れたるを興す川開き計画」と題して、川開きを開催することを「新潟新聞」に連名で発表した。さらにこの川開き復興計画に賛同した東北日報社・新潟日報社・新潟公友社などの市内の新聞社も主催団体に加わった。

9月11・12日の両日に開催された第一回川開きは関係者の予想をはるかに超えて、人々に熱狂的に歓迎された。(☆万代橋下流の中州で打ち上げ)

12.22 二代目万代橋完成、長さ780米、巾6.7米(10数年後木橋の橋体は腐朽して、昭和4823日三代目の万代橋が竣工した)新潟市医師会HPより)。

明治43

各新聞社と丁未会が中心となり新潟川開協賛会を結成し、第二回の川開きを主催した。川開協賛会はやはり長い間中止になっていた湊祭の復興にも成功し、第二回の川開きと同じ日に復興第一回住吉祭が挙行された。昼夜の祭りで市内外からの観客には大好評であった。

(発起人の一人は、池坊流師範の五十嵐半木のようである。西堀不動院に同人の碑がある)

明治44年

新潟川開きに打ち上げる花火の製造技術を向上することを目的に、新潟煙火奨励会が誕生した。この会は新潟川開協賛会の中谷仁平(※1)が・桜井市作(※2)・鍵富三作など花火に関係した市内の有力者30人ほどを誘って結成した組合である。新潟煙火奨励会はまず花火の製造工場を建設し、小泉仁太郎を雇い入れ、もっぱら花火製造技術の改良に努めさせた。

※1西洋物品商、洋服調進所 新潟市本町通8番町

※2八代目新潟市長

明治45年

川開きが中止となったので、小泉は息子の庄吉を各地へ派遣し、花火の製造技術を学ばせた。庄吉はこの後も各地の花火を研究し、新潟川開き花火の製造技術は進歩し世間にも広く認められるようになった。

大正2年

新潟川開協賛会を新潟市川開協会に改称

8.23.24 10数年来中絶していた川開き大会を信濃川べりに再開。新潟市医師会HPより)

大正5年

初めて二尺玉を挙げる。

大正13年

新潟市川開協会は新潟市の管理に移され事務所を市役所内に設置する。

羽越線の全線開通を祝って、全国煙火競技会を組み込み、1日増やして3日間とした。全国でもまれであった三尺玉を始めて打ち上げるなどこれまでの中で最大の川開きとなった。 (※但し、この三尺玉は二尺六寸とも二尺五寸とも言われており、その後大正15年に長岡で打ち上げられた三尺玉が「正三尺玉」だそうです。(明治24年に片貝で打ち上げられた三尺玉も実寸は二尺六寸程度と言われている))

昭和

川開きは毎年継続して開催され、年を追って規模・内容を充実させたが、昭和に入って全国でも珍しい尺玉スターマインの打ち上げも始まり、新潟の川開きは「日本一」とうたわれた。鉄道省国際観光局で発行した外国人向けの英文の日本案内書にも新潟の川開きは「日本随一」と紹介された。

(昭和2.7.17 新万代橋起工式。新潟市医師会HPより)

昭和13年

昭和12年に中国で戦争が始まり、昭和13年には国家総動員法が発令され、その後16年まで中止となります。(※全国に名を轟かせたという大正13年から昭和12年までの新潟での三尺玉(昭和45年頃、3尺玉は一時中断)は現在では知る人ぞ知る記憶で、残念ながら遠い歴史の中に忘れ去られてしまいました。)

昭和17年

太平洋戦争の連勝を祝して久しぶりに開催

昭和18年

18年から20年(終戦)までは再び中止

昭和21年

終戦翌年には早くも再開された。(※昭和22年には進駐軍から花火の許可も出て復活しますが、家屋密集などを理由に大型花火は上げられなくなります。)

昭和23年

万代橋の欄干が崩落し、花火の見物客100人余りが信濃川へ転落する。

8.23 万代橋事件。花火見物の群集下流側の欄干に殺到、群集川中に転落し、死者11名、負傷者29名を出す。新潟市医師会HPより)

昭和28年

新潟博覧会に際し、川開き・住吉祭・商工祭・開港記念祭の四つの行事を一丸とした「新潟まつり」となる

7.1 新潟県産業観光大博覧会、新潟市信濃川河畔5万坪の会場に61日間の幕を開ける。新潟市医師会HPより)

平成19年

政令指定都市移行を記念し第1回みんなの花火「エボリューション!」打ち上げ

平成20年

テーマ曲をHánnaの夢花火で打ち上げる。新潟まつり花火の絵のコンテストを開催する。

平成28年

10周年花火を盛大に打ち上げる

平成30年

開港150年を祝し、ナイアガラ大瀑布とコラボレーションで打ち上げる。